天文台について情報をお寄せくださいとブログに書きましたら、さっそく同窓生からメールをいただきました。
ありがとうございました。
ご了解を得て、下記に、メールの内容を引用させていただきます。
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差出人: 石川千秋 <ishikawa@yk.rim.or.jp>
題名: 昭和49年3月に卒業してます。

メッセージ本文:
こんにちは

次のウェブページを拝見しました。

http://shimizu-higashi.com/?p=682

「天文台にあった同窓会館」のページです。

そこに、
「耐震の問題でながらく立ち入り禁止になり、平成23年8月に取り壊された別館
(天文台)がどういう使い方をされてきたのか? 当時のことを知る方は鬼籍に
入った方も多いので、今のうちに伺っておこうと思います。同窓生で天文台がど
んな使い方をされているか覚えている方、記憶をたどり、ぜひ情報をお寄せくだ
さい。」
と書かれています。

鬼籍に入るにはもう少し時間があるかとおもっていますが、
同窓会の部屋でなく、天文台の話で恐縮ですが記憶を話します。

順不同でランダムに記憶をたどります。
お名前に間違いがあったら恐縮です。

私は中学の時から天体観測に興味を持ち、小さな望遠鏡で自宅の裏の土地から
天体観測をしてました。(といっても月の写真を撮るとか、流星観測をする、人
工衛星の通過を観測するといったことが主でした。望遠鏡を持ち出して、
星を眺めていると、その合間に意外にたくさん流れ星を見ることができるのです。)

高校に入ってからは私の同級生で山梨恵史君、落合君(下の名前が直ぐにでてこ
ない)、中川義夫君、安間さん(あと望月さんも?)と言った方が「地学部」と
いう名前のサークルで天体観測をしていたと思います。
私も出入りをしており、4Fの天文台には隣接して、写真の暗室があり、
撮影した白黒写真フィルムの現像などをしたりしてました。
(今はフィルムなんて使いませんね。)

山梨君は数年前まで東高の職員をされていたと思います。彼に聞けば
天文台の様子を詳しくおしえてもらえたとおもいます。

天文台にはしっかりしたドームがありました。というか皆さんが天文台といって
いるのはあのドームのことをいっているのだろうと思います。スリットは手で開
けたような記憶があります。
ドーム全体の回転はモータだったか、手動だったか記憶が定かではありません。

その中心に西村製作所の20cmの口径の反射望遠鏡があり、
赤道儀に搭載されていました。
赤道儀というのは架台の種類のことです。軸を天の北極方向に向けることで、星
が東から西に移動していくのを追尾しやすくなっています。要は地球の回転に合
わせて逆向きに望遠鏡を回転することで同じ星をずっと見ることができるように
なるのです。
東高のは自動追尾できるようになっていました。

その赤道儀は私が一年のときに新調されました。山梨君がいろいろ調べて本に出
ているような方法を使って慎重に真の天の北極方向に軸を合わせて自動追尾がう
まくいくようになりました。
記憶の底をたどっているのですが、あの回転はモータではなくて、錘を使った古
い時計みたいな方法での回転だったかもしれません。それとも錘がついていたの
はモータの回転速度を調整する装置だったのかもしれません。

西村製作所のギアを使った追尾のための回転をする装置の機械精度もよく、今で
もおぼえていますが、200mm望遠レンズのカメラを載せて、何かの星団(向
きを考えるとペルセウスの2重星団だったでしょうか。)の写真を10分間露光
して撮影するとときに、望遠鏡で明るい星をみて、接眼鏡の焦点に十字の線を
貼っておき、その中心のそばにその星が10分の間隣接しているように必要であ
れば望遠鏡の向きを微調整するのを頼まれました。こうすることで写真で星が流
れずに点状に撮影できます。地球の回転により星は東から西に移動しますが、そ
れを自動追尾をして、10分たちましたということでシャッターを閉じるまで全
く方向の微調整を行う必要がなく感心したことを覚えています。
(いまでもなかなかこうはいきません。極軸といいますが、回転軸が水平方向と
上に向いた角度、つまり仰角ともに精度良く天の北極方向に向けて設置されてお
り、回転する機械の精度がないと駄目です。
(ちなみに、北極星は天の北極から少し離れたところにあります。そして、その
位置は毎年少しづつずれていきます。これは地球の回転軸が非常に長い周期でそ
れ自身がすこしづつ回転しているためです。つまり私が高校生だった頃と、今で
は天の北極と北極星の位置が異なります。北極星だけでなく、すべての星の位置
が少しずれています。このために、星の位置を記した星図には、何時の位置かを
記した「分点」という表記があります。1971-73年当時は1950年分点
という1950年の位置での星の位置を記した星図が主流でした。東高の天文台
にも一冊ありました。今では2000年分点の星図が主流かと思います。)

非常にしっかりとした赤道儀に載った望遠鏡のある本格的なドームでした。

が、このようなぶれがない写真を10分とかに渡って撮影できる状況は、新幹線
の夜の最終列車(当時は09:15分くらいだったでしょうかか)が過ぎてから
でないと得られませんでした。天文台からは数百メートル離れている新幹線です
が、列車が通り過ぎると望遠鏡を覗いていると、星が大きく揺れてしまい写真を
取ることができませんでした。この振動は月や惑星の拡大撮影には禁物でした。
重たい鉄の塊が移動するので無理もないなんていってたのですが。(ということ
は、そもそもやはり地震には弱いビルだったのかもしれませんね。当時は考えた
こともなかった。)。

新幹線は通るたびにパンタグラフのショートの光が怪しくひかり不思議な眺めで
したが、夜の最終電車が通過したあとで、そのあとあまり遅くならないうちに写
真撮影をして帰るというのが夜の観測のパターンだったかと思います。
鉄道オタクの人には珍しいとされるDr. Yellowという架線、線路のメインテナン
スをする黄色に塗られた車両が、終電のあとの線路を通るのを見た部員は多数い
たのではないかと思います。 Dr. Yellow が通常の列車ほどに揺れをもたらした
かについては記憶がありません。拡大撮影に影響にはあったかもしれません。

また、まわりの照明が明るくなったのも残念でした。東名の開通にともない
直ぐとなりの道路が広く改修されてバイパスの一部となり水銀灯を使った街灯が
下に並んでしまったことで
夜の空を眺めるにも下からの明るい光がまぎれるようになってしまったのは残念
なことでした。
4Fの屋上からの流星観測に差し支えが出ました。下からの光がドームを照らす
ので見上げている視野が明るくなってしまったのです。一部に明るいところがあ
ると暗い星が見えなくなってしまいます。

下の道は、たしか一年生の頃には、東高のところまでは広いのですが、そこから
先は古い板壁というのか
建築用語が分かりませんが、古い日本風の建物の塀が張り出していた狭い道でし
た。たしか一年生のときまでは、マラソンの練習のために外にはしるときには、
そこから出て行ったような気もします。
そこが改修工事でひろげられ、3年生の夏過ぎくらいから完全にバイパスにな
り、車の交通量が増えて窓からの騒音がひどくなったとそこに一番近い理数科の
学生から聞いた覚えがあります。このため窓を閉めるしかなくなり、暑い夏をす
ごすために冷房装置が翌年には設置されたとか。

天文台には昔の名残とおもわれる、旧帝国海軍の船で使っていたと思しき大きな
双眼鏡(たしか日本光学製)が、一部レンズが欠けていたか、カビがはえていた
かもしれませんが置いてありました。実用ではありませんが、昔の技術に思いを
はせるにはいい品物でした。
また冬の夜の観測の防寒用に、これまた昔の軍のパイロットが来そうな防寒服が
一着おいてありました。えりのところが何かの動物の毛皮になっており、年代物
でした。
これらの素姓は私たちのときにはすでに不明でした。

直ぐ上の学年にも活発に観測をされていた方が数名おり、たしか栗田さんという
方が、天文台の望遠鏡で、新月(太陽方向からまだ少しの角度しか離れていない
もの)を太陽が沈むか沈まないかでまだ青空が残っている明るい状態で拡大撮影
したものが青空の背景にうかぶ薄白い月のきれいな写真となり、
投稿した「天文ガイド」というこの方面では老舗の趣味の雑誌の表紙となったこ
とがありました。(私も大学にいってから、同好の学生サークルで、月食の連続
撮影をして、それを元にした写真が天文ガイドのページを飾ったこともありまし
た。サークル名で投稿していたかと思います。)

追加で思い出しました。望遠鏡は据え付けの西村20Cm反射望遠鏡以外に、
ニコンの8cm屈折望遠鏡、
もうひとつ高橋製作所の口径65mmの屈折望遠鏡がありました。
65mmの望遠鏡は3枚合わせのアポクロマートという形式のレンズで
当時市販されているものとしては珍しい作りのものです。当時は2枚合わせの
アクロマートという形式のレンズが主流でした。
高橋製作所の望遠鏡は頑丈な架台が売りでしたが、65mmレンズも設計が良い
ものとされていました。星が隣接しているときに口径が大きいと簡単に分離して
みえるものがが、小さい口径の望遠鏡だと分離して見えません。その分離できる
限界は口径できまってきますが、65mmのレンズの分離限界と
言われている琴座の二重星を簡単に分離して見ることができたので感心しまし
た。(星が見かけ上、そばにあるものを2重星といいます。実際に空間でそばに
あり、相互に回りあっているものもありますが、偶然同じ方向に見えるものもあ
ります。2重星は昔から望遠鏡の光学精度を調べるためのテストとして使われて
いました。)このときには、精度を調べるぞと意気込んで覗いてみたのですが、
苦労してじっくり見ることもなく簡単に二つに分離して見えたので
拍子抜けでした。2枚合わせよりも3枚合わせの方が光学的な性能を上げること
は原理的に可能ですが、実際に作る際にはレンズの面の精度がないとうまくいき
ません。高橋製作所はそこをクリアしたわけです。

この両方の望遠鏡は当時の「天文ガイド」の広告で両方の会社のウリの製品であ
り、中学生のころからその広告をずっとみてきた私には、その望遠鏡が二つとも
あるのは驚くべきことでした。しかも西村製作所も老舗であり、いろいろな天文
台の架台を作っていましたから、それらがそろった高校向けとしては立派な天文
台だったということができます。

後者の65mm望遠鏡には、悲しい話しがあり、市立2中出身の私には一年先輩
にあたる方(中学校の生徒会で活躍をした方で写真を見ればこの人と指差すこと
ができると思いますが、名前を失念)が東高に入学し、ごほうびにこの望遠鏡を
買ってもらったのですが、高校一年の冬と伺いましたが、髄膜炎のような病気で
あっというまに亡くなってしまいました。私も中学3年生のときに亡くなったと
いう話を噂で聞いた記憶があります。
東高にいってこの高橋の望遠鏡を見て、発表されてまもないのにすごいと口にし
たところ、亡くなった生徒のご両親が手元にあっても仕方がない、本人が好きで
購入したが、もはや使わないので、他の興味のある生徒に使っていただきたいと
寄付してくださったものだと上級生が教えてくださり、どんな方かと聞いて、2
中の卒業生の方だと判明したのでした。
あの望遠鏡は大事に使いましたが、あの後も大事にしてつかってもらったかな?

観測活動ですが、山梨君が主体となりニコンの8cmの望遠鏡で昼休みに、南側
の校舎と図書館のある建物の間の渡り廊下(東側)の上で黒点観測をしたりしま
した。

私は観測といっても写真撮影につきあって夜なんどか天文台のところにいたくら
いですが、屋上で12月のふたご座流星群を観測したりしたこともあったようで
す。(高校だと泊まりこむというのが難しいのす。当時たしか顧問として日本史
担当の阪尾(さかお。漢字が不如意。)先生が担当してくださったのですが、ふ
たご座の流星群の観測の際には先生がいてくださったのかもしれません。

ときには私が自宅で夜中観測し、山梨君が学校で観測をして結果を比較しようと
して、2中の南にある私の自宅では曇ってみえなかったので私はさっさと寝てし
まったのに、東高では見えて遅くまで観測してたなんてこともあり
狭い清水の中でも全然違うのかとおどろいたこともあります。
これは確か木星が星を隠す(掩蔽)という現象の際の話です。多少離れていると
ころからだと、微妙に隠れる時刻が違ったりするので、離れたところから観測し
て比較することには意義があります。

また高校2年生のときには、体育祭の日の深夜に「ジャコビニ流星群」の大出現
が見られるのではないかという予想がなされ、一般のメディアでも広く報道され
ました。あまりに有名になったので、数年たってたってから松任谷由実の「ジャ
コビニ彗星の日」なんていう歌も作られたくらいです。

当日、地学部の学生たちは、体育祭の疲れた体にむちうち、興津の山梨君の家の
近くの山頂の小屋に詰めて観測をしようとしましたが、あいにく曇りで、小屋の
中で横になっているうちに、体育祭の疲れで皆夜中に寝てしまい、ふと眼をさま
したときに、おっと寝てしまったとあわてて外をみてもやはり曇って少し雨模様
で星は全く見えずほっとしたことを覚えています。(皆私よりもぐっすりと寝て
いたようでした。)
このときは、予想が全くあたらず、想定したような「流星雨」にはほど遠い状況
でした。

当時は流星の出現については、いまほどに予想技術がなかったというか、この予
報失敗で原因を追及することで、彗星のばらまく塵の様子を詳しくたどること
で、1999年のしし座流星群などについてはうまく予想が出来るようになった
様です。この間のコンピュータ技術の進歩(特に速度の向上とだれもが手軽に使
えるPCが普及したこと)も確実に予報に寄与しています。

地学部の活動としては
昼の黒点観測、夜の20cm望遠鏡をつかった惑星の写真撮影、流星観測などが
主な活動だったと思います。
放課後西側の渡り廊下の一階(2階でしたか?)にあった部室(共同利用だった
か?)で良くトランプで遊んでいました。これも重要な活動でした。(そこで私
はナポレオンを覚えました。)

私は一年生のときに弓道部にも在籍しており、当時はちょうど天文台の北に道場
があり、日が短い時間に外で弓を引く練習をしていて回りが暗くなってくるな
か、天文台のそばに浮かぶ月を見上げて、今日は半月だから深夜には暗い星がみ
えるとか考えながら練習をしていると、日によっては誰かがさっそく天文台の
ドームのスリットを開けて回転して月の方向に望遠鏡を向けたりしているのを見
ることがありました。あの道場と天文台の間の狭い区画から見上げた月と、ス
リットから光が漏れる天文台のイメージは死ぬまで頭に残っていそうです。

当時は視力が1.5-2.0ありましたが、冗談抜きで月の明るいところと、暗
いところの境界線がきれいな線ではなく、でこぼご、ジグザグになっているのが
わかりましたから、2.5-3.5とか有る人ならば大きなクレータの存在が確
信できるように見えるのではないかと考えたのも当時です。

ガリレオが望遠鏡を作るまで、月のクレータの存在は知られていなかったようで
が疑問に思うことがありました。木星の衛星の中に4つ非常に明るい衛星があり
ます。今ではガリレオがその存在を発見したことでガリレオ衛星と呼ばれます。
しかし、太平洋の海洋部族のいいつたえで、木星は夜空の雌鶏で、4匹のひよこ
を連れているという話が残っていたようですから、ひょっとすると、ガリレオ以
前に木星の4大衛星の存在が知られていた可能性もあります。
私の場合には、すでに月面に大きなクレータがあることを知っていたわけです
が、Claviusという大きなクレータのところに太陽に照らされてできる明るい所
の暗い所の境界線がかかっているときには、昔の人でこれを見て何か月面にある
とと思う人がいなかったのは不思議と思えるほど模様の特徴を見ることができま
した。
人間は16-18歳くらいが一番視力が良いようで、日本では、古くは繊維産
業、そのあとは電子回路を利用したたとえば家電産業、半導体産業が工場の細か
な作業工程で、視力の良い若い女性の活躍で支えられたという観点は忘れてはな
らないと思っています。これは私よりもっと上の年代の方たちが書かれていた中
で読んだことです。今は視力が衰えて、近眼で乱視も入って月がいくつか重なっ
て見えます。:-)

ちなみに、天文台のドームのある建屋の並びの屋上には簡単に出ることができ
て、柵もあり落ちる心配はありませんでした。
初夏に天文台の4Fの屋上にいると風もさわやかでぽかぽかしており、気持ちの
いいものでしたが、ある日、巨大なスズメバチがそばを飛んでいるのに肝を冷や
した記憶もあります。まだ近くに蜜柑の木のある畑とか有った時代です。

この屋上は下に水銀灯が増えるまでは流星観測に向いた場所だったと思います。

なお、あの建物の狭い階段を上にあがるときに、各階を通り過ぎましたが
ハモバンの人たちは見かけました。茶道の部屋は、文化祭の前に利用されていた
のを覚えています。しかし、同窓会室が使われていたのはあまり覚えていませ
ん。おそらく人がいるときに通ったことはなかったかもしれません。それにして
も狭い階段だったという記憶があります。たしか各フロアの鍵を借り出して行か
ないと上に入れなかったような記憶があります。

ハーモニカバンド、茶道の部屋を利用していた人たちからはまた異なる視点の話
が聞けるのではないでしょうか?

落合君とは、卒業をした翌年の冬に、コホーテク彗星が明るい姿を夜明け前の空
にみせるというので一緒に観望に出かけたことがあります。
元日か二日に双眼鏡で西の低い空で姿を確認したあと、太陽の東側に移って、次
はは明け方にみえると落合君に連絡をして正月あけの何日かおぼえていません
が、二人で自転車で日本平の頂上までのぼり、今は無くなった(閉鎖された?)
プラネタリウムの付近の開けたところで持っていった小さな望遠鏡と双眼鏡で観
測しました。
(残念ながら思ったほど明るくはなりませんでした。4-5等星位でしたでしょう
か。普通に考えれば十分に明るいのですが、もっと明るくなると予想されていた
のです。)
高校3年生のときに打ち上げらたスカイラブからもこのコホーテク彗星は観測さ
れました。スカイラブは、月に人を送り込んだサターンロケットの最終段の筒の
中に観測室を設けたもので、それまでは海に落としていたものを、
NASAが予算が削減されるなかで工夫をして、そのまま軌道に入れてしまって有人
観測室として使ったものです。

日本平で、多少暗さにがっかりしながら観測していると、すぐ近くに自動車で乗
り付けて観測をしている年上の二人組の方がいらっしゃり、そのうち一人の方
が、学生さんですが、こっちの望遠鏡ものぞいてごらんなさいと誘われて覗い
て、その望遠鏡の性能の良さにびっくりしました。(視野が広く、明るく同じ彗
星を見ていてもその違いが明らかでした。)
話をうかがったところ静岡のメガネの春田の経営者の方だったようです。最高級
の接眼レンズ(アイピースといいます)を利用されていました。

お話をうかがったら、1963年に出現した池谷、関彗星も同じ場所から見たが
度肝を抜かれたと。あっちの方向(伊豆半島の方向)に見えるはずだと深夜より
待ち構えていたら、煙突から出る煙みたいな変な雲が
たなびいていて、ちょうど彗星が上ってくる方向にあって、邪魔だなと話してい
たところ、池谷・関彗星の全貌が地上に姿をあらわしたところで茫然自失。雲だ
とおもっていたのは、彗星の尾で、それは日本平から
みて伊豆半島のうえから天頂近くにいたるまでずっと伸びていたということでし
た。私は当時の白黒写真をみるたびにすごい光景だったろうなと思いをはせるば
かりです。
私は小学校二年(?)のときですし、そのすごい夜明け前の眺めの日の夜にTV
ニュースで写真をみたような気もしますが、朝4-5時前に見晴らしのいいとこ
ろに連れて行ってくれるモノ好きな人もいませんでした。

こうして、静岡市には趣味の観測者がいることが若干名いることがわかりまし
た。(実はあのプラネタリウムのところに天文台があって、浦田武さんという名
前のかたがいまから30-20年前熱心に観測をされていたようです。東高の関
係者あるいは清水、静岡の出身者かも存じませんが。多数の小惑星を発見されて
いて、天文ガイドでそのお名前を知りました。)

日本平には、1999年のしし座流星群の大出現の前年に、どこかいい観測場所
はないかと考えて、清水なら温かいし、日本平なら昔頂上まで走って登ったこと
もあり土地勘もあると、友人と一緒に日本平の茶畑の合間で観測をしましたが、
高校生時代に比べるとやはり夜の明かりが目立ち、特に清水駅、港付近の照明の
明るさには驚きました。(また、地元の人に聞いたら夜は暴走族が走り回ってい
ることもあると後で聞きました。)
天文台は暗いところにないといけないですね。1999年のしし座流星群は結局
長野県で観望しました。

あとひとつ重要な話題が。東高の同窓生に講談の宝井馬琴師匠がいらっしゃいま
すが、
あの方はS28年ころの卒業でしょうか、地学部にいたという話を関東の同窓会
の初期の会合で本人より直接伺いました。後輩ですといったら驚かれていました。
そのころにすでに天文台あったのかどうかまでは聞いたような聞かないようなで
よく覚えてません。
今調べたら昭和10年のお生まれだそうですから、S28年というのはおよそ
あってますね。同級生の神谷君と参加したこの関東の同窓会のときには、当時?
かあるいはその少し後のころに卒業された女子同窓生数名の方にお話しを伺うこ
とができて貴重でしたが、もう30年くらい前の話になるかとおもいますので、
その間に師匠も紫綬褒章を受章された由、お体を大事にしていただきたいです。
(今調べて師匠の年齢におどろきましたが、こちらもそれなりの年齢になってい
るわけです。)

というような体験、記憶がある私には、
新幹線の窓から天文台が見えなくなって少しさびしくなりました。

山梨君他の同級生たちに上の内容をベースに聞けば
当時の様子がもう少し分かるかと思います。

もう一人名前を思い出しました。一年下の奥村君という部員も熱心に観測をして
いました。
上の10分間写真を撮影したときも、奥村君が主導して行った観測です。

石川

PS: 少し文体を調整させていただくということで再校していて思い出しまし
た。私のいとこの大石義明さんが(5-6年上かとおもいます。)が、
趣味の雑誌の月間天文ガイド、また天文と気象(これは休刊されて存在しない)
といった雑誌を購入されており、その古いものを私が貰ってきて自宅において
あったのですが、たしか卒業の時だったか(あるいはその後?)に、私が中学時
代から購入していた天文ガイドと一緒にまとめて部室に寄付したようなおぼろげ
の記憶があります。
その中には、上記の栗田さんの撮影された新月が表紙を飾った天文ガイドの号も
あったはずです。
(さすがに、1970年代の天文ガイドの表紙はインターネットを捜しても簡単
には見つかりませんでした。)
あれから40年以上たちますが、月刊誌を毎号保存していったら
大変な量になってしまいますから、とっくに処分されていることでしょう。
だけど、東高の天文台から撮影した表紙の号だけは保存されているかな?

PPS: 天の北極に望遠鏡の曲軸を合わせる話しで、思い出しました。

最近 和算で有名な関孝和も出てくる「天地明察」という江戸時代の渋川春海の
活躍を描いた小説と映画(岡田准一主演)がありました。これを見ると
江戸時代でも測量は大変だったことがうかがえます。
真の北方向を知るには天体観測をすることが必要です。
磁石を使うと日本付近では西方向にずれた北しか知ることができません。(偏角
と言います。)

私が大学生のときですからS51,52年のころでしょうか、県立図書館に登っ
て行く途中の道のそばの住宅地(畑を開発していた)ところで、回りに濠がある
古墳が見つかりました。おそらくこのような濠のある古墳は全国でも10-20
あるか無いかではないかと思います(当時の個数。今ではもっと数が増えている
かも。)
もちろん一番巨大なものは仁徳天皇陵です。考古学に興味のある私には大発見
だったと思うのですが、教育委員会的にはそれほど重要視しなかった模様です。

好奇心から発掘場所を見に行って、小さな土地で直ぐ下側の隣にはすでに住宅も
立っており人が住んでいて、住人には迷惑な話かなと思い、中に入ることもでき
ず、特に何の保護もされていない雨水がたまった濠の跡のある土地を眺めてか
ら、上の日本平の頂上方向を見て驚きました。

この古墳は、日本平の頂上(一番高い所)の真の北に位置していたからです!

あきらかに、この古墳を作った人々は、日本平の真の北方向にこの
古墳を作っていたのです。そういった測量技術をもった豪族が住んでいたので
しょう。ひょっとすると、昔の移動するまえの草薙神社もその延長線上の真の北
方向に有ったかもと思いましたが、それは分かりませんでした。

今のGPSに慣れた世代にはインパクトが無い話かもしれませんが、これは正直
驚きでした。

20世紀ですら、架台の極軸を天の北極に向けるのには山梨君が苦労したので
す。もちろん精度はそこまで必要ないとしてもいまから15世紀以上前の人が測
量をして、山の頂上の真の北の方向に古墳を作ったのでしょう。(ひょっとする
と山頂からの南北線上には他にも古墳があるのかもしれません。というか、多分
存在するのでしょうが、すでに住宅が建っていますね。)
あの古墳が山頂からの北にあると気付いてない方も多数いるかと思いますのでつ
いでに記しておきます。